昭和四十六年十二月二十一日 朝の御理解
X御理解 第六十五節 「日柄方位は見るにおよばぬ。普請作事は、使い勝手のよいの           が、よい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほん           ぞらぬくい、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに           暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不           祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に           良い悪いはないと思え。」
 何のこだわりもない。引っ掛かりもない。自由潤達というか何ともいいようのない程金光教の信心の素晴らしいという事です。
 まあこの、御教えに感じるわけですけども、私は今日は勿論日柄方位とか、家相じゃとか、日柄とかという意味ではなくてですね、自由という事。そして自由自在というか何のこだわりもない、引っ掛かりもない、いはば大きいといえば大きいという行き方の中にですね、私は節度というかね、又は良い凶いのけじめというかね、というところを頂いとりませんと、ややもすると、寛大というそれの反対の事になっていってはおかげは頂かれません。
 神様が一切を赦されるというそういう寛大さと、だからというて、なら、私共がです、吉い凶いのけじめもつけずに、考えずに、只、天地の親神様は大きいなあ、金光教の信心は素晴らしいなあというてばかりはおれないという事をですね、今日ここのところから、頂きたいと思うのです。というのは、雨風が強うては今日は不祥のお天気というではないかとね、雨風が強うては、又は天赦日じゃという言葉を使ってあります。天赦日じゃと。どんな事でも神様に赦されると、例えて言うと、例え悪人でも助かるのじゃと、善人すら助かっておるのだから、悪人なら尚更だと。まあ言ったような本当の意味を大切にです、いうたら私は大変だという事。
 例えば、悪人なら悪人でも、悪人の自覚に立って、そこから改まって行くところにいわば、悪人に於いておやという事になるのである。いうなら、親鸞宗の例を最近いくつも取りますけど大きいとそれではですね、おかげは受けられません。天赦日、いわゆる天赦神様に赦される。何もかも赦される。悪い事しよっても神様がまあ、いうならば、大目に見て下さる。見て見らんふりをして下さる。けれども、やはりそこには、改めさせたいというか、本当の事をわからせたいというような、そこんところに気付かせて頂いて、信心の道を求め求めて行くのが金光様の信心。だからこそ、神を信ずる氏子は多いが、神から信ぜられる氏子は少ないといわれる。神様から信ぜられる行き方というものは、身に付けて行かねばなりません。
 昨日お祭りが済んでからでしたけれど、二,三人話とる時に、合楽の信心は、秋永先生の奥さんが言っとられました。神様、都々逸歌わせたまうというのは、昔、大和の近藤さんというて、一番はじめに灯台が出来ました時に灯台に行かれましてですね大変【】行されて大和に帰ってとられた。いわゆるその方が神様に、都々逸歌わせたまうというような、言葉を使われた。私は素晴らしい事だと思うた。だからというて神様が、いつもいつも、都々逸を歌いよったらどうですかね。
 私が今日、皆さんに言いたいところ、聞いて頂きたいところはそこなのです。それは、もう堕落ですね。だからその堕落のところをです、許されておるという行き方でと、いわゆる神に信じられる、お取立受ける事は出来んです。           私、今朝からお夢をず-っと頂いとったんですけど、私が目がこう、別にどうというてないけど、目がえらい充血しとります。まあその事からでしょうが、えらい私はその目を川で洗いよるです。その川の水の色が、丁度乳のように、乳に赤どろがまじったような、赤白いような濁った水で洗っているのです。お夢の中で。
 それで一間位隔てて一寸こちらの方を見ましたら、やはりそこに小川がありましてそこには、これはもう、山清水がこっちに流れてきとる。谷川だろうと思われる。
 実に清らかな水がね、流れてる。あらこっちで洗えばよかったと言うて、洗い直しているところを頂きました。どっちでもよいと言うて、やはり目を洗うなら、清らかな水で洗わなければ、いけないでしょう。これもお恵みでなんて頂き方はいけないです。目という事は心の窓といわれる位ですから、まあ心という事でしょう。
 心を清めるとか魂を清めるのが信心だと信じておりますから、如何にきよめる、洗うというてもです、濁った水で洗ったところで、清めたが清めたになりませんよ。
 やはり山清水のように清らかな水で、目を洗わして貰うというところがです、やはり清浄、いわゆる清らかというような場合でなからねばという事なのです。
 教会が例えていうならば、バ-とか花柳界あたりのような、雰囲気がですね、御広前がもしあったとするならば、それはやっぱりおかしいですね。
 あれもおかげ、これもおかげと言いながらです、やはり清浄な、清らかないうならそこに居っただけでも心が清まるといったほうを選ばなければいけないでしょうが。 日常生活の上に於いてもしかりです。外にこんな事をいっておられた、私はどこか此処を離れて、遠いところの町に行っているのです、それがとても自然に私にえらい親切にして下さる方があって、その親切にして下さる人が、又一人増えて二人になって、私にいろいろそれこそ、よだれが出るような、甘い話をして下さるわけですよ。 いわゆる金儲けの話なのです。しかもここに、今日中に貰うときなさると大変に儲かる。今日中じゃなからにゃいかん。ぜんぜん二人の人は知らぬ人じゃけれども、二人の人が私にしきりにすすめておる。
 私が夢の中で思いよるとですね、私にもし金銭欲があるなら、こげん時にこげな話にすぐ乗るじゃろうなという事でした。例えば、今日の御理解から言うと、人間じゃから欲があると。その欲とても尊いのだ、有難いのだという、例えば頂き方、実際なら、私が欲がないわけじゃないでしょうけれども、誰よりも私は少ないと思うのです ですからそれが、ようわかるのです。ははあ、これ達はくんどるとじゃなと、まあそれならようまるっきり自然に、そういうふうにおきてくるようにです、私もいうならば、詐欺師たちなのです。いうならばサクラなのです。
 騙す時に人を使う、あれをサクラといいましょう。それで私はもし、少しでも欲があったらです、もう完全に乗るだろうと思ってその話を聞きよった。
 ここからどうか、具合よういうちから、この場を逃がれなければいけないなと思いよるところ。そして私にもし金銭欲があるとするならば、この話にすぐ飛びつくだろうと思いよるようなお夢でした。
 申しましたでしょう。好きなものには目がないと、それがもう自分が好きで、好きでたまらないものには、もう絶対に目がないのです人間は、盲目なのです。
 ですから好きすぎるものがあっちゃいかんというわけなのである。甘いもの、辛いもの同じこと。甘いもの好きでたまらん人は、甘いものには目がなくなってしまう。 辛いものが好きな人は、もうそれが毒である事がわかりながらでも、もう目がないわからなくなってくる。私は今日はそういうところをです、如何に、天赦日じゃろうかというところです、神様の御恵みのものだとかいうところでもです、雨風が強うてはというところ、そこを見極める。これは乗っちゃならないなと、これは食べちゃならんとその見極めがつかなかったら、それは成程、おかげでしょうけれども、それで命を縮めるような結果になる。それもおかげといえばそれまでの話。
 ですから神を信ずるということなのです。毒も又薬に見えましょうけれども、神様から信じられるという生き方にならして頂く為には、この辺のところのけじめがつかなければ、おかげを逃がすことになります。おかげが受けられなくなる。
 それから落ちたその先もたとえそれが地獄であっても、親神様の懐の中でという、そういう頂き方もありますけども、それではいけないという事なのです。
 落ちるこの身に十八かんの内と思えば危な気はない。こういう頂き方にはです、私はどうも甘いものが好きだから、甘いもので命を落とすともうそれでよかと、命を落としたその先とても、やはり阿弥陀如来神の心の中だからというわけなのです。
 それじゃいけないでしょうが、ブレ-キかけにゃんところはブレ-キかけにゃいけん。いうならいつもかつも都々逸を歌んとったんじゃ、神様都々逸歌わせたまうという事にはならない。その場を見極めてからの事でなからにゃ。まだそれに関連したようなお夢をず-っと頂いておりましたが、一寸思い出しませんけどね。
 今日はそういうようなお夢の中のお知らせを頂きました。道を一重、こちらにある水も道一重、こちらにある水も水に変わりはないけれど、片一方の方は牛乳に赤土をまぜたように濁っておる。片一方の道一重こちらの方は、それこそ清らかな水晶のような水が流れておる。人間だからと、金光教の信心は大きいのだというてそしてね、そこんところを大きいではない、寛大であって、何に引っ掛かる事もない。言わば、勝手たるべしという事をです、自由勝手たるべしという事とです、自由わがままという事になったらいけんのです。
 その辺の見境というものは、もう本当に本当に私は、信心になっておらんと間違いますです。それが好きなものである場合にはもう、目がなくなるのです。見えなくなるのです。自由勝手たるべしという事なら有難いけれども、自由わがまま、いわゆるわがまま勝手たるべしになったんでは、いわゆるおかげを落とさなければなりません この辺のところは、大変に難しいところですね。ですから如何に信心になっておらねばならないかという事です。
 好きすぎるようなものがあるならば、いわゆる嫌いになる稽古をせにゃいけんという事です。でないとその場で目を失ってしまいますから、例えば、雨風が強うては不祥のお天気じゃというなら、不祥のお天気とわかっとってもそこを、突っ走っていくような行き方なんです。いわゆるそれではおかげにならんです。
 いわゆる私の生き方である、成り行きを大事にしながらとこういう生き方ですね。 右に行こうと思いよったら、なかに障害が出来た、ところが雨風に似たようなものが今日は足止めをくったなあと思わせて頂いたら足止め、いわゆるそこで暫く足踏み状態というか、ひとまずそこに落ちつかにゃいけん。そこを風雨をおかしてでもいきよる、いわゆる不祥のお天気にもかかわらず、そこんところを乗りきろうとうするところに怪我がある。いうならぬれじぼたれにならなければならない事になる。
 私共の行くてにです、天気が雨風が強い事があるのです。ところがです、私共が好きにまかまでかけとると、好きすぎる事をここ辺ではそういう事を申します。
 好きに、まかまでかけちゃるもんじゃけんで、という事になりますと、そこに見極めがつかんようになる。不祥の天気であるという事がわからんようになる。盲目になる。盲目的な行動になってしまって、とりかえしのつかないおかげを落とす事になる そのおかげを落としたところとても、神の懐の中というような頂き方はです、それは大変に間違いだと思う。神を信じるという事に於いては、今日の神様から信じられなければ、本当ではないのが、金光様の御信心なのですからね。確かに私は金光様の御信心はね、もう神徳を受ける事だけしか教えておられんような気が致しますね。
 人間は神徳を受けなければ本当のいわゆる、この世は徳の船に乗って渡れとおっしゃる。そういう生き方を教祖金光大神は教えておられるのです。
 徹頭徹尾お徳を受ける。神様に信じられるお徳を頂く事を、いわば願いとしての信心にならなければならない。
 今日はそこんところを、日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思えと、成程日のお照らしなさる日は吉い凶いはないと思うてもよいけれども、雨の降る時には、やはり不祥のお天気と頂かなけれはいけないと。
 おかげを頂きまして私共がです、結局は魂を清める、心を清める、心を磨く、折角改まっていくならばです、やはり目を洗うならば、清らかな水でなければいけない。 濁った水も清らかな水も、水に変わりはない、お恵みのものに違いない。私共はそのきららかな水で、いつも心が清められるようなです、お恵みによって清められるような雰囲気というかね、その場をやはり持たなければならぬ。又、そこんところに精進しなければならない。家族の中に於いてしかりです。
 食堂と便所は間違えてはならぬ。お座敷とお納戸を間違えてはならぬ。どこもここも神様の御恵みの中だからというて、お便所で御飯を食べたっていかんでしょうが。 やっぱり御飯を頂くなら食堂。この辺のところの見極めがですね、実際は身につけにくいのです。いわば割り切った信心などはそこんところがです、間違いやすいところですから、それを見極める事の出来れるいうならば、目を持たなければなりません 信心に何事を真心になれよとこうおおせられます。成程何事にも、真心になっておかないとです、それをいわば濁った水清らかな水も、見極めのつかぬようになる。それこそこれは落とし【】のな中にあってもです、いわゆる好きなものの前には目がないと、目がなくってしまう。盲目的な行動になるような事では、それもおかげというわけにはいかん。それでは私はおかげにならん。神様に信じられるような事にはならない。今日は天赦日と不祥の日じゃというそのところから、御理解頂きましたですね 成程大きな意味でいったらです、成程地獄の底も神様の懐に違いはないけれども、やはり地獄に落ちて、ああおかげというよりも、やはり極楽に行ってああ、おかげといった方がよいでしょう。そういうおかげを頂きたい。
                    どうぞ。